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吉川宏志歌集『燕麦』

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吉川宏志さんの第六歌集『燕麦』(砂子屋書房)を読む。


まず、Ⅲ章の東日本大震災以降の作品に注目した。

あなたは安全と思っていましたかと言う妻あらむ山のはざまに
おくのほそ道そのひとところ放射線強く射すとぞ鯖野を過ぎつ
天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ


原発事故を詠った作品を三首。一首目は、言うまでもなく、土岐善麿の敗戦後の歌〈あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ〉を踏まえた歌。二首目では、おくのほそ道まで、三首目では、天皇の玉音放送まで。どれも、日本の歴史を振り返り、行って帰ってきたところで一首にまとめているような作品だ。それだけに、どの歌も、表面的な原発批判に終わっていないばかりか、事態の本質を、深いところから汲み上げてくるような作品になっている。

四つ折にして投票をせし紙が函のなかにて薄目をひらく
あたたかきほうがコピーか二束の資料が朝の机に置かる


日常のちょっとした一場面を詠った歌にも、惹かれる歌が多かった。吉川さんの従来からの得意分野ではあるけれど、やはり痺れる。一首目は、薄目をひらいた投票用紙に投票者が見透かされているようだし、二首目は、会社勤めの経験があれば、誰もが分かる場面なのだが、なかなか〈あたたかきほう〉とは言えないと思う。

暮れながら白砂のうかぶ庭のあり木のナイフにて羊羹を切る


この歌が一番惹かれる歌で、白砂の庭を見ながら羊羹を食べるという、それだけの場面なのだけれど、それだけの場面に、どうしてここまで魅力を感じるのだろうか。少し分析的に読むと、〈木のナイフ〉というのがちょっと意外で、〈ナイフは金属〉という常識と、〈ナイフで羊羹は切らない〉という二つの常識を同時に裏切られ、その結果として、羊羹を切るものとしては、〈木のナイフ〉しかないんじゃないだろうかと思わされるに到る。そして、〈暮れながら(↓)白砂のうかぶ(↑)庭のあり木のナイフにて羊羹を切る(↓)〉という、イメージの上での上下のベクトルが相殺し合って、一首の中になんとも言えない均衡を保っている。

他には、次のような作品に惹かれた。

ハムスター食べずに死にしひまわりの種にはどれも白き筋あり
橋に来て遠くの橋を見ておれば夕べの靄がつつみはじめる
ナイフにて削りしころは鉛筆のなかに小さな仏が居たり
天頂の月にあたまを引っぱられ冬の小さな町を歩くよ
いつしかに陽のさしてきていちじくの葉のうらがわに雨は回りぬ




写真は、近所のタイ料理屋さんのガイガッパオ。横須賀はタイ料理屋さんが多く、家から歩いて行けるところだけでも4軒もある。


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