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辰巳泰子歌集『いっしょにお茶を』


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辰巳泰子さんの歌集『いっしょにお茶を』(沖積舎)を読む。

読み始めるとなかなか止まらなくなる歌集というのがあって、この一冊もそうだった。

がらーん橋このさき往かばずどーん橋暗渠にかかる戸板のごとき
猫抱いてもやんもやんとする君と家のうちらに光が及ぶ


一首目は、一瞬先は闇だとか、未来のことは分からないとか、歌意はそういうことだと思うのだが、そういうことよりも、「がらーん橋」「ずどーん橋」という擬音のような造語のような言葉の魅力を、素直に楽しめばいいのだと思う。二首目もそうだ。「もやんもやん」が、もやもやしているような、まったりしているような、猫とじゃれあっているような、とても幅のある表現であるところがとてもいい。人間の感情とか、雰囲気とか、そもそもかっちりとした言葉で表すことのほうが無理なのだと、改めて気づかされる。

いまひとたび逢わんと言いておおかたは逢わずなりゆく襤褸の駅に
眠り際いつもあなたの手を嗅いで星屑の底へ落ちてしまえた
愛なくてぐずぐずかたちに収めゆきし若ければ肉をなかだちとして


歌集中で惹かれた歌の多くが、男女の逢いと別れを詠ったものだった。一首目の「襤褸」は「らんる」と読み、ぼろきれのこと。四句目まではすっと入って行けて、結句の「襤褸」と「駅」の取り合わせでぐっと詩に昇華する。二首目は、浪漫的な下の句を導き出すのが、「手を嗅いで」という動物的な仕草であるところが面白い。三首目の「ぐずぐず」「肉をなかだちとして」も巧みな表現だと思う。

と、理屈を書いて来て、ちょっと「もやんもやん」としている。辰巳さんは、事態のかなり向こう側のことを詠んでいると思うのだが、それを言葉で説明するのが難しい。一首一首の背後から、強いあこがれのようなものを感じる歌集と言ったらいいだろうか。

ここでは敢えて引用しないけれど、巻末の一首がとても印象的だった。ぜひ皆さん、手に取ってください。

他に惹かれたのは、次のような歌。

握手して街の半(なか)らに別れしはつゆくさの藍ほど揺れのこる
どうやって帰っただろう駅までをゆうやけぐもに乗ったんじゃないかな
電飾が樹木をさらに暗くした もともとくらい いのちというは
あした掘る馬鈴薯の名はつきあかり酔いて農夫の言い違えたり
受け取った愛に自問の夜を明かす一匹のいわしなれど回遊す
右も左もわからぬ場所でバスを降り星から星へと歩くようでした




写真はある日のティータイム。私はお酒が好きなので、あまりこういう甘いものは食べないのだけれど、たまにはこんな日もあります。

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