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加藤治郎歌集『しんきろう』

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加藤治郎さんの第八歌集『しんきろう』(砂子屋書房)を読む。

というか、ずっと前に読んでいたのだが、色々と立て込んでいて、ブログでの紹介が遅くなってしまった。

朝の二錠を飲むには水が冷たくてしばし薬はくるくるまわる
アスファルトから靴を引き抜くゆらゆらと炎天の首都ただひとり行く


コップの水で薬を飲んだり、炎天下の道を歩いたり、ごくありふれた日常の場面だ。一首目は、口の中で薬がくるくる回っているという切り取り方がとても面白い。二首目は、「アスファルトから靴を引き抜く」という表現が、アスファルトも溶け出すような炎天の暑さを思わせて説得力がある。

こんなさらっと詠った歌にも、細やかなレトリックが用いられているところがすごい。こういう歌を読むと、頭の中にドーパミン(のようなもの)がじゅわーっと湧いてくるのを感じる。

あるときは青空に彫るかなしみのふかかりければ手をやすめたり
のぞみから送ろうとするひとひらのメールは暗い壁にぶちあたる
さくら花吹き寄せられて生涯の終りに首都の車輛を止める
残業のざんのひびきが怖ろしい漏洩前のくぼんだまなこ


私自身、会社勤めをしながら歌を詠む者として、四首目の「残業のざんのひびきが怖ろしい」には、素直に共感。



写真は、関内の「No-Chair」という立飲み屋さんのしめさば。仕事帰りによく寄るお店で、料理がとても美味しい。19時30分まではタイムサービスで一部のドリンクが安いが、なかなかその時間にはお店に行けない。「ざんのひびき」におののく日々。


小島熱子歌集『りんご1/2個』

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小島熱子さんの第三歌集『りんご1/2個』(本阿弥書店)を読む。

季節感に満ちた歌が多く、読んでいてとても気持ちのいい歌集だった。

ブーツから急にサンダルとなる朝そらまめのやうにあしゆびは立つ
葉の隙にいまだをさなきあんずの実けふもわたしの石鹼が減る
箸置きにはしおく指のしづけさに春のゆふべはうすずみに昏れ
三月がスキップしながら縱いてくるバターナイフを買ひにゆく道

注)四首目の「縱」は歌集では足偏。私のMacでは出て来ず、すみません。


季節を感じる歌から四首。どの歌もどこか懐かしい感じがする歌だが、懐かしいだけでなく、一首目の「そらまめのやうにあしゆびは立つ」や、四首目の「三月」と「バターナイフ」の取り合わせなど、修辞としてとても新鮮だと思う。二首目の「あんずの実」の歌が一番好きかなあ。

自分の思いを声高に主張するような歌ではなく、世界にそっと寄り添ってゆくような歌。とてもリラックスして読めた一冊だった。

他には、次のような歌がいいと思った。

うすうすと眼窩のいたむ日の暮れにあすの下塗りのやうに風吹く
右の歯の痛みて左のみに噛む降りはじめたるあめも傾ぎて
通過する成田エクスプレスの果てのはてパリのパサージュはしぐれのころか
なんといふやはらかき声にいふものか幼の髪に触れて言ふとき
ついと柚子ひとつ捥ぎたるわが指が勲章のごとくしばらくにほふ




写真は汐入駅そばの「汐入萬菜」のゴーヤチャンプル。

石川美南歌集『裏島』『離れ島』

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4/28(土)、石川美南歌集『裏島』『離れ島』(本阿弥書店)の批評会に参加。中野サンプラザ。

批評会での議論は、連作の構成や設定などに集中していたように思う。

特に『裏島』は、登場人物などの設定や構成を確認しながら読まないといけない連作が中心になった歌集である。

そうした連作を丁寧に読み解いていくことが、石川さんの歌集を読む楽しみの一つである。

ただ一方で、そこのところが、ある種の読者にとってハードルになっているようにも思う。普通の歌集であれば、主人公は、第何歌集であろうが、ずっと同じ人物である。一方で、石川美南さんの作品は、短編小説的というのだろうか、連作ごとにどんな主人公が登場するのかを、確認しながら読まないといけない。連作ごとに設定の確認をしないといけないというのは、読者にとって、結構しんどいことなのではないだろうか。

そんなことを考えながら読んだ二冊である。

パネラーの一人の今野寿美さんが、一首一首の作品を中心に歌集を語ろうとしていたのが印象に残っている。

私も、どちらかと言えば、設定や構成を読むというよりは、一首一首の作品を味わいたいと思う。『裏島』『離れ島』には、次のようないい歌がたくさんあるのである。

『裏島』
川向きの窓は二センチ開かれてあくびのやうな風を入れをり
お呼び出し申し上げます体内にブルースをお持ちのお客様
方頰に楽器の影が落ちてゐてみんなみんないつか死ぬつて辛い
液体と気体を行き来するうちに恋に落ちたりするはずだつた
裸身並べ座つてゐたり温泉は光の畝を見に来るところ


『離れ島』
人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす
窓枠に夜をはめ込む係にてあなたは凛と目を凝らしたり
地下足袋の足は浮きたり 高層の窓ガラス横へ横へ拭くとき
ご活躍はかねがね聞いてゐたれども 会へばアンダルシアのあかるさ
羽根ぶとん眉まで上げて眠る夜もわたしの足ははみ出してゐた




写真は横須賀中央「中央酒場」のまぐろのブツ。必ず頼む定番メニュー。絶品。

渡辺泰徳歌集『浮遊生物』

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渡辺泰徳さんの第一歌集『浮遊生物』(青磁社)を読む。

渡辺さんは「かりん」所属。大学で長く生態学を研究してこられた研究者の方である。

学生時代から現在までの出来事が、回想を交えながら描かれている。

実験の長引くわれら学生夫婦 白衣でかき込みし朝日屋の出前
実家からザック一杯缶詰を運んで暮らしたポスドクの日々
熱出した子をひきとりに保育園 職なきわれは融通が利く
おしどりでご研究とは素敵など言われて返事はいつも「ええまあ」


回想の歌から。学生時代に結婚し、共に研究生活を歩んで来たご夫婦の記録が、ときにユーモアを交えながら描かれている。4首目の「いつも「ええまあ」」は軽快なリズムの奥に、綺麗事ではないですよという否定の思いと、かすかな含羞とが入り交じった、いい結句だと思う。

他にも、渡辺さんの歌には、結句が面白い歌が多い。

三十年飼い続けいるみじんこは今朝も元気でホップホップシンク
笑いつつ女子学生が教えたるわれの寝癖はきっとつんぴん


「ホップホップシンク」の歌は、研究対象のミジンコを詠んだ歌だが、「跳んで、跳んで、沈む」ミジンコの動きが目に見えるようだ。この歌を読んで以来、しばらく「ホップホップシンク」という言葉が頭から離れない。
寝癖を形容した「きっとつんぴん」もリズムが面白く、とても好きな結句だ。

こんな結句が面白い歌を読むと、とても得をしたような気持ちになる。三十一音の最後の一音まで、余さず味わえるということだろうか。

他には、次のような歌がいいと思った。ここで引用はしていないが、奥さんのことを詠った連作「未完なる」は、通勤電車の中で読んで、涙ぐんでしまった。

バス亭に銃取り落とす少年兵みな凍りつくテルアビブ郊外
資源とは奪い合うものみずうみは水資源なり機銃座おかれて
キャンパスの池に川鵜が飛びきたり小鮒もわれも黒く固まる
あられちゃんのような眼鏡の笑顔した君は楽しき恋をしたのか
若き日に吾の目指ししものはなに鰻重掘る手がふと宙に浮く


最近、仕事でバテ気味だったが、歌集『浮遊生物』を読んで元気が出た。頑張っていこう。ホップホップシンク。



写真は汐入駅前の「あうとろう亭」のブリの刺身。照りがすごい。

今野寿美歌集『雪占』(その2)

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引き続き、今野寿美歌集『雪占』を読む。

息の下に「あなたとあなた」それさへも「あなた」ひとりのことにありけめ


河野裕子さんへの挽歌だ。挽歌でありながら、河野さんの一首「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」をどう解釈するかという解釈論も歌の中で展開されている。

河野さんの歌の「あなたとあなた」をどう読むか。「夫と子」であるとする説と、「夫ひとり」であるとする説がある。今野寿美さんの歌は、〈あなたひとりのことだったのでしょう〉と詠っており、「夫ひとり」説に立つ。

私は「夫と子」であると疑わずにいたので、最初に「夫ひとり」説を知ったときにはびっくりしてしまった。「りとむ」の歌会の後に何人かで話したら、「りとむ」では「夫ひとり」説をとる方が多かった。

「夫ひとり」説の場合は、「あなたとあなたに」を言い換えをして強調している表現と読むのだろう。

「夫と子」説に立てば、家族愛の歌ということになるし、「夫ひとり」説に立てば、夫婦愛の歌ということになる。河野さんのどのような側面を重視するかで、読みが変わってくる歌なのかもしれない。

なお、この河野さんの一首については、「りとむ」ホームページのコラム「天文工房より〈2〉」で、和嶋勝利さんが詳しく論じている。

歌集『雪占』には、いろいろと語り合いたくなるような歌がたくさんある。他にも、こんな歌がいいと思った。

二百年くらゐは生きる亀にしてうんざりうんざり浮き沈みせり
薄ら氷の縁(へり)にくちばし差し入れるああこんな一所懸命もある
水仙は立つて年越すならひにて暮らしの外に香をただよはす
よき酒をたいせつに呑む心にはとほき若さや白梅つぼむ
鯖のあをを厭ひたりしがおとなしく食めりこの春ひとりの男
聖書なら持つてゐる開くこともある文語訳であることがたいせつ
校正刷り(ゲラ)の一字に「よろしきにや?」と注ありし「解釈と鑑賞」編集部




写真は、2月の「茂吉を体感する旅」で訪れた雪の最上川。


今野寿美歌集『雪占』(その1)

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今野寿美歌集『雪占』(本阿弥書店)を読んだ。

著者の第九歌集にあたる。

知性に満ちた品格のある作風がますます自在になってきたと感じる。

去年一年間、「歌壇」に連載した作品をまとめた一冊で、連載中に東日本大震災がおこり、震災を詠んだ歌が多く収められることになった。

をさなごがきちんと静止するすがた放射線量測らるるため
ただ笑ふだけではなくて春の山 のたり(丶丶丶)だけではなく春の海


震災詠から二首。
一首目は、小さな子どもが放射線量の測定のため、じっとしている姿を切り取ったもの。元気に跳び回っているはずの子どもが「静止」している姿が、事態の異常さを物語っている。同時に、弱き者へのやさしい眼差しを感じる歌だ。
二首目は、上の句が「山笑ふ」という春の季語を、下の句が「春の海ひねもすのたりのたりかな」という蕪村の句を踏まえて作られている。震災の後、春の山はときおり泣いていたのかもしれないし、春の海という言葉の持つ意味も、大きく変わってしまったのかもしれない。そんなことを考えさせられる。

それなのにねえと唄ひし美(み)ち奴(やつこ)知らねど 茂吉愛されてゐる
DNAはまさしく啄木その額(ひたひ)曽孫の少女の元担任より


近代歌人が登場する歌を二首。
一首目は、茂吉の『寒雲』所収の有名な歌「鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」」を踏まえた歌。茂吉は当時の流行歌を詠み込んだ訳だが、今となっては流行歌のほうは忘れられ、茂吉の歌は読み継がれているのだから、面白いものだ。
二首目は、啄木の曽孫の少女の元担任教師の方から聞いた話ということだろうか。「額」に着目したところがよく、読者にも啄木の顔がすっと立ち上がる。

(つづく)



写真は、2月に「りとむ」の仲間たちとの「茂吉を体感する旅」で訪れた、山形県大石田町の「聴禽書屋」(茂吉が疎開していた建物)にあった火鉢。茂吉が使っていた物とのことだが、茂吉は空気が動くのが嫌で、あまり火鉢を使わなかったと学芸員さんから聞いた。「茂吉を体感する旅」は、われらがアニキの和嶋勝利さんの企画。いろいろとありがとうございました。

喜多昭夫歌集『早熟みかん』

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喜多昭夫歌集『早熟みかん』を読む。

前歌集までとかなり詠風が変わっているように思う。

作者に何か思うところがあるのだろうかと、「あとがき」を探してみたが、この歌集には「あとがき」がなく、作品以外のところから、作者の意図を伺うことはできない。なんだか読者が試されているように感じる。

芸能人や著名歌人の名前が詠み込まれた歌がかなりあり、一冊の特徴になっている。

例えば、 次のような歌。

穂村弘サイン会の最後尾 ウナギイヌがゐるつて本当?
バカボンのパパよりもなほうつくしく岡井隆は抒情してゐる


これらの作品をどう読んだらいいのか悩む。歌人の名前が詠み込まれているが、挨拶歌という訳でもなさそうだ。『天才バカボン』のキャラクターを通じて、歌壇のビッグネームを相対化しようとしているのだろうか。作品の奥に、現代人のひりひりとした自意識のようなものを感じ取ればいいのだろうか。

ライトな文体ですっと読み通せる一冊だが、一首一首をどう読むか。なかなか難しい歌集だと思う。

私が好きだったのは次のような歌。こんなふっと肩の力が抜けて行くような歌がいいと思った。

町なかに人影あらずうすうすともののかたちに雪つもる見ゆ
滑るやうに車線変更してしまふコンサバティブな春の夕暮れ
臨時職員(りんしょく)のつとめ尊し五百枚コピーとるにも心技体要る
にんげんに生まれたことが悔やまれてならない  ひのきぶろになりたい




写真は先日作ったタコさんウインナー。大ダコと子ダコがいる。造形に関してはまだまだ修行中。

三枝昂之編『今さら聞けない短歌のツボ100』(角川短歌ライブラリー)

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三枝昂之編『今さら聞けない短歌のツボ100』が出ました。

2月に創刊された新シリーズ「角川短歌ライブラリー」の第一弾として、小池光著『うたの人物記 短歌に詠まれた人びと』と同時に刊行された一冊。

「短歌と和歌はどう違う?」
「腰折れ、どういう意味?」
「作って投稿して、短歌は一人で楽しむだけではダメ?」
「一首単独ではわからなくても、連作の中ではわかる。こういう歌はOK?」

など、100項目がそれぞれ見開き2ページで解説されています。

どこから読み始めてもよく、読み物としてもとても面白い一冊です。

私も一部の項目を執筆しています。

ぜひお近くの書店で手に取ってください。Amazonでも購入できるようです。



写真は、正月に帰省したときに、母が打ってくれた蕎麦。


山本かね子歌集『ひぐらしの森』

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山本かね子さんの第十二歌集『ひぐらしの森』(本阿弥書店)を読む。

まず立ち止まるのはこんな歌。

戦争担当世代さなりと頷きてこみあぐるものあり怺へてゐたり
戦の後に生まれたかりき戦争など知りませんと言つて笑ひたかりき
書く文字がよく見えません助けてと歌稿届きぬ手に包みたり
労られほつこり温(ぬく)き心処(こころど)や老いたるよとて笑顔を返す


戦争を経験した世代ならではの思いや、自身や周囲の人たちの老いを見つめる作品が心に迫る。

花殊に美しき今年流されし人を探すと出てゆく舟は
シートベルトと言ひ違(たが)ふ老を笑ひますか始めて聞きし魔性の言葉


震災や原発事故を詠んだこんな作品にも、深い思いを感じる。

いいなあ春はひかり満ち花咲き溢れひねもす遊ぶいのちと遊ぶ


この歌が歌集の中で一番好きな歌だった。老いの歌が多い歌集だが、一冊の本当のテーマは「いのち」なのではないかと思う。

父清浩と師の壽樹の名一文字(ひともじ)をペンネームとし歌に励みき


こちらは「りとむ」から「沃野」へ移り、「沃野」の代表になった三枝浩樹さんを詠んだ歌。浩樹さんは少年時代に、父の清浩さんの所属する「沃野」で活躍されていた。「壽樹」というのは、「沃野」を創刊した植松壽樹のこと。「浩樹」がペンネームだというのは知っていたが、父上と植松壽樹から一文字ずつとったものだとは初めて知った。

山本かね子さんとはお会いしたことはないのだが、三枝兄弟がともに「沃野」で歌を始めたということもあり、山本かね子さんには親戚の方のような親しみを感じている。



写真は、あるお店の茶きん寿司。

札幌・西林【歌人の行きつけ その5】 [歌人の行きつけ]

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昨年末、札幌に帰省した際に、久しぶりにコーヒープラザ西林に立ち寄った。

(札幌は大学時代の四年間住んでいた私にとっては第二の故郷の街。ついつい帰省という言葉を使ってしまう。)

西林は「にしりん」と読む。

中城ふみ子が札幌医大病院に入院中に、よく訪れた喫茶店として有名。

山名康郎さんの『中城ふみ子の歌』(短歌新聞社)に、次の文章がある。

ふみ子は体調の良いとき、よく病院を抜け出して絵を観に行った。いつも電話で山名が呼び出されてお供をさせられた。山名の勤め先の北海道新聞社が二、三分のところにあった。画廊へ行く前に茶房の「西林」でコーヒーを飲みながら歌のことなど語り合った。少女のように明るい笑顔だったが、ときどき軽い咳をしていた。会うたびに窶れが目立った。


当時の西林には、金魚が泳いでいる水槽があり、ある日、ふみ子がレジの伝票に書いて山名さんに見せたのが次の一首だったという。

わが内の脆き部分を揺り出でて鰭ながく泳ぐ赤き金魚は


現在の西林は、地下鉄の大通駅とすすきの駅の間の地下街ポールタウンから、「4プラ」というファッションビルの地下に入ってすぐのところにある。

店内には、1948年(昭和23年)に改装したときの、お店の外観写真が飾ってあり、当時は路面店だったことが分かる。

写真は、西林で食べた「カツライス」。昭和24年からの味だという。見た目はカツカレーだが、ソースはカレーではなく、オリジナルの甘めのさっぱりとしたソース。とてもおいしかった。

店内もゆったりとしていて、リラックスできる。

札幌訪問の際は、ぜひ西林へ。



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